『秘密の花園』に描かれた魔法
※未読の方ご注意!ネタバレありまくりです。
『秘密の花園』。子どもの頃、テレビアニメでやっているのを見ていました。
両親を亡くし、生まれ育ったインドから遠いイギリスに住む叔父の家に引き取られることになった少女メリー。気むずかしい、と言われている叔父が不在の中、広くて暗い雰囲気のお屋敷で、召使いに世話をされながらの暮らしが始まる。
そこでメリーは、「入ってはいけない」といわれている「秘密の花園」を見つけ、足を踏み入れる―――。
アニメで知った大体の筋で、物語のすべてをわかった気になっていたのですが、それは大きな間違いでした。
数年前、たまたま原作本(福音館文庫版、挿絵は堀内誠一!)を読む機会がありました。
まず、ストーリーテリング(お話の運び方)のうまさに唸りました。
登場人物のキャラクター、謎のある設定が次から次に畳みかけるように描かれ、読者をぐいぐいひっぱっていくのです。
前半のあらすじはこんな感じ。
<つかみ>
誰にも愛されたことがないゆえ、ひねくれた性格のメリーが、生まれ育ったインドから遠いイギリスの叔父の家に引き取られる。→大移動、変わった境遇、主人公が全然かわいくないところ良い。
<面白いエピソード>
召使のマーサ、庭師のベン・ウェザースタフ、庭にいるコマドリと出会う→個性的なキャラクターが次々に登場して、エピソードもそれぞれおもしろい。
<サスペンス要素>
屋敷の謎。廊下から泣き声が聞こえたり、入ってはいけない庭があることを知る。
<一つ目のクライマックス>
コマドリの導きで、入ってはいけない庭=「秘密の花園」のカギを見つけ、足を踏み入れる
<2人目の主人公の登場>
「秘密の花園」との出会いに「おおー」と思ったら間髪入れず、マーサの弟のディッコン登場。動物とも話せるという、とても魅力的なキャラクターで、好きになってしまう!
ディッコンとメリーは荒れた「秘密の花園」を一緒に再生させることに……。
このあたりまでで約200ページ(全体の半分)くらい。
ここまできて、私ははたと気が付きました。
「そういえば重要な登場人物のあの子がまだ出てきてないじゃないの!」
「あの子」とは、<3人目の主人公>とも言える、屋敷の主の息子、コリンです。
彼が物語の半分くらいまで出てこなくても、なんら支障なく面白く読めるのです。驚きでした。
そして、コリンが出てきてから、物語の面白さはさらに加速していきます。
後半に描かれた「魔法」
物語後半には、メリーの性格もすっかり朗らかになり、身体が不自由だったコリンが驚異の回復をするという大クライマックスがありますが、私が素晴らしいなと思ったのは、「魔法」が出てくるところです。
「魔法」といっても、呪文や杖で魔法をかけるような夢物語ではない、誰もが手に入れることのできる魔法について、物語の中で丁寧に描かれています。
メリーとディッコンに連れられて、コリンはついに「秘密の花園」にたどりつき、そこで素晴らしい時を過ごします。
会う人みんなを笑顔にし、気難しいコリンすら穏やかにさせてしまうディッコンが、魔法使いなのではないかと、メリーは考えています。
車いす生活をしているコリンが「自分は歩けるようになるのだろうか」と言うと、ディッコンは「びくびくするのをやめりゃ、立てる」と言います。
ついに、コリンが自らの意思で立ち上がろうとしたとき、ディッコンは即座にコリンに駆け寄ります。
不思議な力がみなぎって、立ち上がることができたコリンは、ディッコンに問いかけます「君は魔法を使っているのかい?」と。コリンもメリーと同じように、ディッコンの不思議な力を魔法だと感じたのです。
ディッコンは答えます。
「魔法を使ってるのはあんただろ。ここらの土のなかからいろんなものが出てくるのと同じ魔法さ」
コリンが立ち上がろうとするのを見ていたメリーは、
「大丈夫よ! 大丈夫よ! 大丈夫! できるわ」
と何度も言います。
コリンがディッコンに支えられながら歩いているときも、メリーは、
「できるわよ! できるわよ! できる、ってあたしいったでしょ! できるの、できるのよ! できるわ!」
とコリンに向かって言っています。
まるで魔法の言葉みたい、と私は思いました。「できる、できる」と言い続けること、これは、魔法の呪文なのです。
こうして子どもたちは、すっかり魔法を信じるようになるのです。
「あそこには魔法が働いているんだもの―いい魔法がね」
「もしそれが本物の魔法じゃなくてもさ、そのつもりになればいいだろ。あそこには何かがあるんだよ―何かがね!」
この「何か」とは、いったい何なんでしょう。ディッコンの母親(彼女も魅力的なキャラクターです)は、魔法を「大きくて、いいもの」と表現しました。魔法というのは世界中にあって、みんなそれぞれが違う呼び方で呼んでいる。その「大きくて、いいもの」を信じ続けるよう、コリンに言います。
そして、同じころ、コリンの父親も、旅の途中、自然の中で「大きくて、いいもの」に出あって、妻を亡くしたことで長年病み続けていた心が癒された心地がします。
この「魔法」や「大きくていいもの」は、レイチェル・カーソンの『センス・オブ・ワンダー』に通じるものがあると私は感じました。
地球環境に警鐘を鳴らした『沈黙の春』で有名な、生物学者レイチェル・カーソンの遺作でもある『センス・オブ・ワンダー』は、彼女が甥と一緒に、自然に満ちた別荘の周りを散策し、甥が自然と出あっていく様を見た経験から書かれた本です。
そこには、子どもと自然との出あいが、子どもの人生にどんなに前向きな影響を与えるかが書かれています。
「地球の美しさと神秘を感じ取れる人は、科学者であろうとなかろうと、人生に飽きて疲れたり、孤独にさいなまれることはけっしてないでしょう。たとえ生活の中で苦しみや心配ごとにであったとしても、かならずや、内面的な満足感と、生きていることへの新たなよろこびへ通ずる小道を見つけだすことができると信じます」
(『センス・オブ・ワンダー』レイチェル・カーソン・著 上遠恵子・訳 新潮社)
その経験を、メリーたちは「秘密の花園」を通して得たのです。
『センス・オブ・ワンダー』が編まれたのが1965年、『秘密の花園』が出版されたのが1911年。『センス・オブ・ワンダー』よりも随分前に、自然を通した子どもの成長や恵みが書かれているのは、驚きです。時代を超えてこの二人の作家は、同じ精神をもっていたのだと思います。
さて、それでは私たちがその、「魔法」を使うにはどうしたらいいのでしょう。
それもコリンが示してくれます。
「もちろんこの世界にはたくさん魔法があるにちがいないよ」-「たぶんはじめのうちは、何かすてきなことが起るまで、起りますように、起りますように、っていえばいいんじゃないかな」
コリンはそう言うと、自分が考える魔法について、そして自分も魔法を使えることを科学的に証明してみせると、長い演説(福音館文庫『秘密の花園』p.366~p.368)をします。
自分が何かを成し遂げることができると、強く信じて、繰り返しことばにして、やってみること、それがコリンの考えた「魔法」のやり方です。
コリンは言います。
「魔法はぼくのなかにある。みんなのなかにある」
作者は物語を通して、子どもたちにも魔法を信じてほしい、魔法は誰にでも使えるのだと伝えたかったのでしょう。
そして読者はきっと、自分にも魔法が使えるようになると思えるのではないでしょうか。
それはこの物語の持つ「魔法」だと、私は思うのです。
バーネットの描く主人公の変遷
『秘密の花園』の作者は、『小公女』『小公子』と同じ、バーネットです。
「実はしっかり者」という点で、二つの物語の主人公の印象はは若干重なる部分があるのですが、『秘密の花園』は『小公女』のように、いじめを中心とした物語の引っ張り方をせず(それももちろん物語としておもしろさはあるのですが)、子どもたちの伸びやかに成長する力や、登場人物の魅力で読ませます。どちらかといえばじっとりとした印象のある『小公女』に対し、『秘密の花園』のカラッとしてはつらつとした空気は、正反対の印象です。
メリーやコリンのひねくれた性格は、作品が出た当時は珍しく、新しい主人公の型だったようです。
今では、ひねくれものの主人公が成長するという物語は、当たり前のように感じますが、当時は『小公女』のセーラのような、元から清廉潔白な主人公が王道だったのだそうです。(福音館文庫『秘密の花園』訳者あとがきより)
私には、『小公女』と『秘密の花園』の作者が同じというのは驚きで、バーネットの作家としての幅の広さも感じました。
そういえば、メリーとディッコンとコリンの関係性は、『ハイジ』のハイジとペーターとクララの関係性と重なるような気がしました。というわけで、『ハイジ』も読んでみたのですが、その話は、またいつか。