ルンペルシュティルツヒェンー名前を知られてはいけないー
ルンペルシュティルツヒェン現象
「ルンペルシュティルツヒェン現象」(ルンペルシュティルツキン現象)という心理学用語がある
「対象の名前を知る(もしくは付ける)ことで、安心したり、それを理解した気になる」
という心理現象で、グリム童話「ルンペルシュティルツヒェン」から名付けられた。
ルンペルシュティルツヒェンはこんなお話。
王様に無理難題を命じられた娘が、小人に助けられる。
最初はネックレスを引き換えに、次に指輪を、三日目にもう何もあげるものがないと娘が言うと、小人は「生まれてくる子ども」をよこせと言う。
仕方なく約束し、窮地を切り抜けた娘だが、王様と結婚した娘が子どもを産むと、小人は約束通り子どもを奪いに来る。
抵抗する娘に、小人は「自分の名前当てることができたら子どもは奪わない」と言う。
娘は小人の名前「ルンペルシュティルツヒェン」と言い当て、名前を知られた小人は自分の身を引き裂いて死んでしまう。(『おはなしのろうそく12』東京子ども図書館/刊 収録)
「名前」が重要?
ルンペルシュティルツヒェンにとって、名前を知られることは死に値することなのだ。
「名前」が重要な価値をもつ文学作品はたくさんある。
例えばファンタジー文学『ゲド戦記』(アーシュラ・K・ルグウィン/著)の世界では、人は二つの名前を持ち、一つは通り名、もう一つはまことの名で、まことの名が他人に知られると、その者にすべてを支配されるとされている。
ジブリ映画『千と千尋の神隠し』では、主人公の千尋は、迷い込んだ世界で名前を湯屋の主人の湯婆婆に奪われてしまい、千と呼ばれるようになる。
ファンタジー文学『ハリー・ポッター』(J.K.ローリング/作)では、最強の闇の魔法使いヴォルデモートが「名前を言ってはいけないあの人」と呼ばれている(これには理由があるけれど、それは物語の先まで明かされないので、位置づけ的には名前自体が畏怖されていると取れるだろう)。
「名前」を知ることで得るもの
こういった「名前の価値」、について、私は長年理解できず、「みんな、なんでそんなに名前を隠したがるの~?」ってずっと思っていた。
でも「ルンペルシュティルツヒェン現象」という言葉を知ったとき、急にそのことがストンと腑に落ちた。
名前のない何かは、人を落ち着かなくさせる。名前を知ることで、人は安心する。
言葉を覚え始めた子どもは「これは何?」と、大人が疲れるくらいに尋ねる。
それは、名前を知って安心したいという、人間の根源的な欲求からくるものなのかもしれない。
私たちだって、体の不調を感じて病院に行き、医者に「なんともないですよ」と言われるよりも、「これは○○病ですね」と言われる方が、なぜか安心しないだろうか。
病名がわかることで、病を掌握したような、問題解決に一歩近づいた錯覚に陥る。
そういうことか~!
ストンと腑に落ちたところで、素話「ルンペルシュティルツヒエン」を覚えてみることにした。
前までおもしろさのわからなかった物語が、どんどん面白く感じるから不思議だった。
ここまで書いて、「あっ」と思った。
私は、「名前が価値を持つ」という現象に
「ルンペルシュティルツヒェン現象」という名前がつくことを知ったことで、
この事を掌握し、意味がわかったような気持ちになったのではないか。
これこそルンペルシュティルツヒェン現象や!!
なんとまあ!ミイラ取りがミイラになったようだ!
ちなみに『ルンペルシュティルツヒェン』にそっくりな昔話が、日本にもある。
川に橋をかけようとした大工の前に鬼が現れて、「めだまとひきかえに はしをかけてやる」と言う。
橋をかけた鬼は目玉をよこせと迫るが、大工が渋ると、「おれのなまえを あてれば ゆるす」と鬼は提案する。
何かをしてくれる代償に、大事なものを渡せという展開や、鬼の名前を大工が知る流れまで、ルンペルシュティルツヒェンとよく似ている。
よみきかせにもぴったりの昔話。
だからか、私の中で、ルンペルシュティルツヒェンも、小人と言うより小鬼みたいなイメージがある。
そういえば最近見た映画『君の名前で僕を呼んで』も、いい映画だったけど、相手の名前で自分を呼ぶ、ということに打ち震える高揚感みたいなものが、最後までわからなかった。
やっぱり名前の価値が私にはイマイチわかっていないのかもしれない。