「田村セツコ展」at 弥生美術館

田村セツコ展 at 弥生美術館にいってきた!

 

私のイラストエッセイ好きは、田村セツコさんと青山みるくさんから始まった!

 

子どものころ、サンリオから発刊されている「いちご新聞」(サンリオショップで買える、当時150円くらいだった新聞!)で連載されていたお二人のイラストエッセイが大好きでした。

 

かわいい絵に、かわいい書き文字、取り上げられたテーマも、リボンだったり、スイーツだったり…かわいいがぎゅっとそこにつまっていて。

それを見たときの胸がキューっとなると気持ちを、展示を見て思い出しました。

かわいすぎて、叫びだしそうで、声を抑えるのに必死!!思わず「あああ…」って声がもれてしまった瞬間も。

 

もう一つ思い出深いのは、ソフトカバーの文庫シリーズの「おちゃめなふたご」「はりきりダレル」(/作 ポプラ社/刊)のシリーズの挿画を、田村セツコさんがされていたこと!

英国の学校生活楽しむおちゃめな女子たちに、胸をときめかせたのでした…!

 

原画に添えられた説明を見ると、原書を読んだ編集者は、この物語を他愛のない話というように捉えていたようなのです(確かに、同じような少女ものでいう「若草物語」みたいな「名作感」はない)。

 

この物語にときめきを吹き込んだのは、まぎれもなく田村さんのイラストなんだろうなあと思います。

 

ちなみに現在は、イラストが新たになって刊行されているようす…

おおお…今風だ…

 

 

アニメ化されたこともあったんですって。

これもまた印象が違います。

絵の印象って物語を左右するものなんだなあと改めて。

 

 

 

 

(同じようなシリーズで「すてきなケティ」というシリーズは、青山みるくさんが絵を描かれていて、それも大好きだった)

 

 

話を戻して。

田村セツコ展では、デビュー当時から近年の作品まで展示されていて、時々の流行に合わせて、絵柄が少しずつ変わっているのも見られます。

 

近年のプリンセスの絵本の挿画なんかもめちゃかわいいんだけど…

虫愛ずる姫とか、不思議の国のアリスとか…。

田村さんは年を重ねてもずーっとそのまま、かわいいを表現し続けてきたんだ!

 

その集大成が見れる充実の展示です。

 

最近、写真を撮れる展示が多いですがこちらの展示は写真不可。

写真に収めたい絵がいっぱいあって…。

なかでも「カエルの王子さま」の絵(印刷されていないみたい)にぎゅっと心つかまれました。

心に焼き付けたつもりだけれども、まあ、最近の記憶力の低下で忘れちゃいました…。(図録も今回はないみたいです…!)

 

是非心に焼き付けに、訪れてください!!

 

ちなみに、弥生美術館のツイッターには結構写真が投稿されているので、こちらもどうぞ。

twitter.com

 



弥生美術館、竹久夢二美術館 設立の経緯

 

弥生美術館、並びに隣接する竹久夢二美術館に行ったのも久々のこと。

前に来たときは大阪在住の時で、東京旅の途中だったので、駆け足で見た記憶しかないのですが、今回は弥生美術館のコレクション展示もゆっくりみることができ、

弥生美術館の設立の経緯も初めて知りました。

 

もともとは、弁護士だった鹿野琢見さんが、子どものころに心つかまれた絵の作者、高畠華宵さんに大人になってから会いに行き、親交を深める中で、作品を継承することになり、この美術館ができたそう。竹久夢二美術館のコレクションも、鹿野さんによるもの。

子どものころの出会いがきっかけで、こんな立派な美術館を作ることになるなんて…。

子どものころ何に出会う何かが、人生を決めてしまうことがあるんだよなあと(自分もそうですが)思います。

だからこそ、子どもに本との良い出会いをしてもらうお手伝いをこれからもしていきたいなと、改めて思ったりしました。

 

めーっちゃ久しぶりにブログ書きました。

書きたいことはいっぱいあるんだ…!

 

 

 



愛は不思議 子どもの本に描かれた恋愛

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『だれかを好きになった日に読む本 きょうはこの本読みたいな(1)』

(現代児童文学研究会/編  偕成社/刊)

 

多分小学校4年生くらいの時、学校の図書館で出会ったこの本に、大きな衝撃を受けた一冊。

 

現在重版未定本。

ネットのレビューを見ると、様々な人がこの本に衝撃を受け、ある意味人生狂ったという人もいるくらいの、禁断の書のようになっている。

レビューが熱い↓

 

確かに!!!

子どもの頃にこの本に出会えたことはとても良かった!

 

しかし、大人になった今、子どもにこの本を勧めるかと言えば、勧めていいのか…?と思ってしまう。

なので子どもたちにはぜひ自力でこの本にであってほしいとこっそり思っている。

 

構成はアンソロジーになっていて、いろいろな作家の「恋愛」をテーマにした小説や詩が収録されているのだが、中にちょっと内容が大人な作品があって。

でも、大人な設定の作品しか心に残っていないのだ。どうしてだろう。

 

心に残っている2作は

『電話が鳴っている』(川島誠

中学3年に受けるテストの結果によって、すべての人がランク付けされて、将来を決定される世界。(近未来、という設定かな)

優秀だったはずの恋人が、ケガで最下位のランクと判断されてしまう。最下位ランクの人間には、恐ろしい行く末が決まっていて……。

恋人と一緒に最下位ランクになろうとして、できなかった主人公。恋人が、最後の言葉を言うために、主人公のもとに電話をかけてくる……。

この『電話が鳴っている』というタイトルもたまらない。ずっと忘れられないタイトル。

大人になって、映画「カダカ」を見たとき、世界観似てると思った。

「カダカ」良い映画です。

 

 

『The End of the World』(那須正幹/作)

核戦争が起き、家族とシェルターに避難していた僕。

だんだんシェルター内にも放射能が侵入し、父も母も死んでしまう。たった一人残された僕のもとに、女の子からの無線が聞こえる。

人は、死の危険を感じても、愛しい(と思えるかもしれない)人に会いに行くんだ、最後の最後には選ぶのは愛なのだと、子ども心にズシンときた思い出。

 

きっと、いずれの作品もSFとしてはよくある設定なのかもしれない。でも、私にとってはおそらく初めての、シビアな設定のSFだったので、衝撃も大きかったのだと思う。

 

 

子どもの頃『だれかを好きになった日に読む本』に胸を熱くした私だが、

大人になってからは「恋愛もの」にそんなに興味がない。

世に流れる歌謡曲の多くが、愛をうたったものであることに疑問をいだいていて、もしかしてこれは人々をロマンティック・ラブ・イデオロギー(※恋愛を動機とした結婚と性交を神聖視する思想)に陥れるための罠なのではないか(軽い陰謀論)と、学生の頃思っていた。

 

そんな私が大人になってから見つけた、魔訶不思議な2冊の愛の絵本がこちら。

 

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『アロくんとキーヨちゃん』(長谷川集平/作 ブックローン社/刊)

よく見ると、レオレオニの有名な絵本『あおくんときいろちゃん』にそっくり!

オマージュなんだそう。

 

『アロくんとキーヨちゃん』を読んで、『あおくんときいろちゃん』が恋愛を描いた絵本だと気づいた鈍感な私…。

 

2つの色が交わって、新しい色が生まれるということ…

ん? 交わる??

それってちょっとエロテッィクじゃない!?

 

まさしく『アロくんとキーヨちゃん』は、エロスを感じるような作品で、暗い部屋でアロくんとキーヨちゃんが手をとりあっているところなんか、もはや二人は一線を越えてしまっている…!と思ってしまった。

アロくんの母が帰ってきて、二人の邪魔?をするところも、母の姑感を感じる。

母が寝そべって2人の描いた絵をながめるところも、何かある感じが…。

 

『たにむらくん』

(岡本けん/作 リブロポート/刊)

内気そうな少年たにむらくんが、たちばなさんに猛アタック。

嫌いな牛乳を飲んで背を伸ばし、勉強も頑張り…

なのに、たちばなさん、あっさりたにむらくんをフッて、遠くへ引っ越してしまう。

それでもあきらめないたにむらくん。

まっすぐな愛か、それはいきすぎるとストーカーになるのか…。

最後のページは「ゾッ」とすらする、不思議な後味の絵本。

 

いずれも今は手に入りにくい本だが、

もものこぶんこで読むことができるので、機会があればぜひ。

もものこぶんこ(ももやまぶんこを支える会) (kiwamari.org)

 

こちらはまだまだ現役絵本!

 

ルンペルシュティルツヒェンー名前を知られてはいけないー

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ルンペルシュティルツヒェン現象

「ルンペルシュティルツヒェン現象」(ルンペルシュティルツキン現象)という心理学用語がある

「対象の名前を知る(もしくは付ける)ことで、安心したり、それを理解した気になる」

 

という心理現象で、グリム童話「ルンペルシュティルツヒェン」から名付けられた。

 

ルンペルシュティルツヒェンはこんなお話。

王様に無理難題を命じられた娘が、小人に助けられる。

最初はネックレスを引き換えに、次に指輪を、三日目にもう何もあげるものがないと娘が言うと、小人は「生まれてくる子ども」をよこせと言う。

仕方なく約束し、窮地を切り抜けた娘だが、王様と結婚した娘が子どもを産むと、小人は約束通り子どもを奪いに来る。

抵抗する娘に、小人は「自分の名前当てることができたら子どもは奪わない」と言う。

娘は小人の名前「ルンペルシュティルツヒェン」と言い当て、名前を知られた小人は自分の身を引き裂いて死んでしまう。(『おはなしのろうそく12』東京子ども図書館/刊 収録)

 

おはなしのろうそく 12

おはなしのろうそく 12

  • 東京子ども図書館
Amazon

 

「名前」が重要?

ルンペルシュティルツヒェンにとって、名前を知られることは死に値することなのだ。

「名前」が重要な価値をもつ文学作品はたくさんある。

 

例えばファンタジー文学『ゲド戦記』(アーシュラ・K・ルグウィン/著)の世界では、人は二つの名前を持ち、一つは通り名、もう一つはまことの名で、まことの名が他人に知られると、その者にすべてを支配されるとされている。

 

ジブリ映画『千と千尋の神隠し』では、主人公の千尋は、迷い込んだ世界で名前を湯屋の主人の湯婆婆に奪われてしまい、千と呼ばれるようになる。

 

ファンタジー文学『ハリー・ポッター』(J.K.ローリング/作)では、最強の闇の魔法使いヴォルデモートが「名前を言ってはいけないあの人」と呼ばれている(これには理由があるけれど、それは物語の先まで明かされないので、位置づけ的には名前自体が畏怖されていると取れるだろう)。

 

 

 

 

 

「名前」を知ることで得るもの

こういった「名前の価値」、について、私は長年理解できず、「みんな、なんでそんなに名前を隠したがるの~?」ってずっと思っていた。

 

でも「ルンペルシュティルツヒェン現象」という言葉を知ったとき、急にそのことがストンと腑に落ちた。

名前のない何かは、人を落ち着かなくさせる。名前を知ることで、人は安心する。

 

言葉を覚え始めた子どもは「これは何?」と、大人が疲れるくらいに尋ねる。

それは、名前を知って安心したいという、人間の根源的な欲求からくるものなのかもしれない。

 

私たちだって、体の不調を感じて病院に行き、医者に「なんともないですよ」と言われるよりも、「これは○○病ですね」と言われる方が、なぜか安心しないだろうか。

病名がわかることで、病を掌握したような、問題解決に一歩近づいた錯覚に陥る。

 

そういうことか~!

 

ストンと腑に落ちたところで、素話「ルンペルシュティルツヒエン」を覚えてみることにした。

前までおもしろさのわからなかった物語が、どんどん面白く感じるから不思議だった。

 

ここまで書いて、「あっ」と思った。

 

私は、「名前が価値を持つ」という現象に

「ルンペルシュティルツヒェン現象」という名前がつくことを知ったことで、

この事を掌握し、意味がわかったような気持ちになったのではないか。

これこそルンペルシュティルツヒェン現象や!!

なんとまあ!ミイラ取りがミイラになったようだ!

 

ちなみに『ルンペルシュティルツヒェン』にそっくりな昔話が、日本にもある。

 

 

川に橋をかけようとした大工の前に鬼が現れて、「めだまとひきかえに はしをかけてやる」と言う。

橋をかけた鬼は目玉をよこせと迫るが、大工が渋ると、「おれのなまえを あてれば ゆるす」と鬼は提案する。

 

何かをしてくれる代償に、大事なものを渡せという展開や、鬼の名前を大工が知る流れまで、ルンペルシュティルツヒェンとよく似ている。

よみきかせにもぴったりの昔話。

 

だからか、私の中で、ルンペルシュティルツヒェンも、小人と言うより小鬼みたいなイメージがある。

 

そういえば最近見た映画『君の名前で僕を呼んで』も、いい映画だったけど、相手の名前で自分を呼ぶ、ということに打ち震える高揚感みたいなものが、最後までわからなかった。

やっぱり名前の価値が私にはイマイチわかっていないのかもしれない。

 

 

 

『動物会議』に雌牛の席はない

(2022年4月17日・追記)

1.完訳版『動物会議』を読んで

大好きな美術館、立川のPLAY!MUSEUMで

『動物会議』(エーリッヒ・ケストナー/作 ヴァルター・トリアー/絵 池田香代子/訳 岩波書店/刊)をテーマにした展示が始まるらしい。

企画展示「どうぶつかいぎ展」|PLAY! MUSEUMとPARK (play2020.jp)

『動物会議』からインスピレーションを得て、現代の作家たちが作り出した絵や造形作品が展示される。

 

『動物会議』…そういえば読んだことがなかった。

 

 

 

エーリッヒ・ケストナー作の本書。

ケストナーといえば、『飛ぶ教室』や『二人のロッテ』、『点子ちゃんとアントン』など、児童文学好きは必ずと言っていいほど通る作家。(ちなみに私が読んだのはずいぶん大人になってから。「児童文学好きの子ども」というわけではなかったので…)

 

『動物会議』は、ケストナーの描いてきた児童文学とは少し趣が違って、絵の占める割合が多い。しかし、絵本というには、文量が多くて、書棚のどこに置くか迷う本でもある。(もものこぶんこでは、高学年読み物の棚に置いてある気がする。)

 

1949年に発刊されたこの本は、「戦争によって荒廃した人びとの心、とくに戦争にはなんの責任もないこどもに心の栄養を」と考えた、イェラ・レープマン(イェラ・レップマン。図書館司書、国際児童図書評議会の設立者)が発案して、生まれたとされている。(『動物会議』あとがきより)

 

愚かな人間たちにこの地球をまかせてはおけないと、動物たちが奮起して、地球上のあらゆる動物たちが集まる動物会議を開催する。平和を約束する条約を作り、人間に署名させようとするが、政治家たちはなかなか首を縦に振らない。業を煮やした動物たちは、大胆な行動に出る…。

 

人間の、とりわけ多くの大人の愚かさは、救いようがないもので、この本が描かれてもう80年以上も経つというのに、変わらない。

 

それをケストナーは、思わず笑ってしまうような表現で、物語としても読みごたえのある作品にしあげている。

大真面目にふるまう人間の政治家たちは、読者の目には滑稽に、愚かにうつるだろう。

ケストナー作品の挿絵を長く担当し続けた、ヴァルター・トリアーの絵も素晴らしい。なんとも楽しい絵が、全てのページに贅沢にちりばめられている。(とあるページにミッ〇―マウスが描かれているのも、ご愛嬌)。

 

しかし、完訳版を読み進めていて、はっと気づくことがあった。

それは43ページ、動物会議の参加者の雄牛のラインホルトが、ホテルで「ある要求」をするシーン。

その要求を聞いて、「ホテルの支配人のコウノトリは、ぞっとして、身の毛がよだった」とある。

雄牛のラインホルトは、「さびしくてしょうがないので、チャーミングな雌牛をよんでくれ」と言ったのだ。

ホテルに、雌牛を、呼んでくれと。

それはつまり……。

もちろん肯定的に書かれていないとしても、動物会議に参加するような「立派」な雄牛が、このような行動をとることが、ちょっとした悪い冗談のように書かれていることに、私も「ぞっとして、身の毛がよだった」。

 

そこで私はある疑問を抱き、ページをさかのぼって見て、その後も注意深く本書を読むことになった。

 

「果たして、この動物会議にメスの動物は出席しているのだろうか?」

 

ゾウのオスカルの「おくさん」は、会議に出席する旦那のために、服にアイロンをかけ、持っていく荷物の準備をする。

駅では動物たちの子を連れたお母さんが、出席者の動物たちを見送るシーンがある。

動物たちの話し言葉を注意深く見てみる。

例外的にライチョウ(とペンギン?)が「あたしたちも鳥よ」と言っている(46ページ)以外は、いわゆる「女言葉」を話す動物は出席者の中にはいないようだ(女言葉を話すか否かで性別を判断することもナンセンスだが、それは今回は置いておくとする)。

そして思い至る。

 

「ああ、この動物会議には、雌牛の席はないのかもしれない」

 

急にこの物語が、自分のために描かれたものではないような、疎外感を感じてしまった。

1949年の本である。そこまでのことを、当時の大作家に望むのは高望みなことなのだと、わかっている。

でも、現代に生きる私たちは、この本を読んで、それに「気づく」ことができる。

 

これから先、私たちが描く『動物会議』があるとすれば、そこにはきっと、雌牛の席も用意されているだろう。

雌牛だけではなくて、あらゆる性(現代において性別は2つだけではないと思う)の動物のための席が、そこにはあるだろう。

 

正直、雄牛のラインホルトのホテルでのくだりがなければ、私はそのことに気づかなかったかもしれない。なんとなく読み流して、いい話だなあと思って、終わっていたかもしれない。

図らずして、「それ」に気づけるかどうか、試されるかのような読書体験になった。

ちなみに、会議を見守る来賓者の「人間の子ども」は男女混合(人種も混合しているところにも配慮を感じる)。

子どもには性別はないのだというのが、また当時らしい無邪気な感覚な気がしたのだった。

 

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例)未来の動物会議(分科会みたいになってしまった)



 

これを書いていて、思い出した映画がある。

 

 

それぞれに高い能力を持ち、NASAに勤めながらも、「黒人系」で「女性」であるために理不尽な差別にあう3人の主人公たち。

それでも宇宙への夢を抱き、仲間と手を取り合い、ロケット打ち上げに尽力するという、実話に基づく物語。

天才的な数学の才を持ち、ロケット打ち上げの計算係を担うキャサリンの目の前で、重要な会議が開かれる会議室の扉が閉じられるシーンが、いつまでも忘れられない。

部内で一番有能であるにも関わらず、彼女は会議に出席し、意見を言うことも認められなかった。

 

かくいう私も、何度も目の前で会議室の扉が閉まるような経験をしてきたし、今だってそう変わらない。(それは自分の能力が至らないからとも、自覚しているつもりだ)

だんだんと年を取ってきたから、「興味のない会議に出なくていいのは幸運」と思うようにも、なってきたのだけれど。

 

(以下は、2022年4月17日追記)

2.抄訳版『どうぶつ会議』を読んで

 

後日、小さいサイズの『どうぶつ会議』を読んだ。

 

 

読むまで知らなかったのだが、最初に読んだ大型版『動物会議』は完訳版で、小さいサイズの『どうぶつ会議』は抄訳だった。

大筋はもちろん同じだが、抄訳版は縦書きであるのに加え、いくつかの挿絵や、細かいエピソードが短い言葉で省略されたりしている。

 

表紙の表と裏にわたる迫力のある会議の絵も、抄訳版では表紙のみになっていたり(そして裏表紙の絵のチョイス…なぜこの絵…)、省略された挿絵の中にも良い絵(動物たちが絵本から飛び出していく絵とか)があるので少し残念に感じたりもする。

 

ただ、私が完訳版を読んで訝しんだいくつかの点において、抄訳版では巧妙に(?)処理されていて、驚いた。

  • 雄牛のラインホルトが、雌牛をよんでくれと要求するシーン

完訳版では43ページ、雄牛のラインホルトは「さびしくてしょうがないので、チャーミングな雌牛をよんでくれ」と言うのに対し、

抄訳版では「ひとりじゃさみしいから、だれかつれがほしいといいました」とされている。

この訳の巧妙さ!!

完訳版では露骨な要求であるのに対して、抄訳版ではともすればラインホルトが独り言を言ってるくらいの感覚でスルーできてしまう。

 

  • 会議にでかける夫のために、準備をする妻たちの描写

完訳版では27ページの下に、「動物のおくさんたち」が、夫のために旅支度をする、という挿絵が入っている。

これを見て「旦那の出張のために妻がせっせと荷造りする」という、前世紀的な描写に(もちろんこのおはなしは前世紀に描かれているので間違いではないのだが)、私はげんなりしたのだった。

文章で読むと流れは全訳も完訳もほぼ同じなのだけれど、抄訳版ではこの挿絵が省略されていることで、視覚表現から受けるインパクトが少ない分、読んだときの印象が自分では少し変わった。

 

これは原著にあたらないとわからないのだが、

完訳版ではライチョウとペンギンは「あたしたち」と自らを称するのに対し、抄訳版では「ぼくたちだって」と言う。

「動物会議に雌牛の席はない」というタイトルで書き始めた記事なので、ここがオスなのメスなのかは気になるところなのだけれど……自分の中で仮説はあるのだけれど、仮の話をしても仕方がないのでここは割愛する。

ただ、ここに訳の違いがあるということは、何かしらのつまずきがあったことは確かなのではないだろうか。

 

私がぐちぐちと書き綴った3つの点において、完訳版と抄訳版には見て取れる違いがあったのには、驚きだった。

特に1つめの雄牛のラインホルトの記述については、訳者の光吉夏弥さんの「配慮」なのではないか、と思う。

ある意味巧妙な「編集」だな、とも。

(子どもに生々しい表現を見せるべきではない、と言う意味の配慮かもしれない)

ともあれ、光吉さんが訳をするにあたって、私と同じようにこの部分にひっかかりを感じたのだと思うと、自分の感じたひっかかりが思い過ごしではないのだと思えたのだった。

 

3.PLAY!MUSEUM『どうぶつかいぎ展』

企画展示「どうぶつかいぎ展」|PLAY! MUSEUMとPARK (play2020.jp)

会期が長いからいつでも行けると思っていたのに、気づけば最終日が近づき、ぎりぎりで行くことができた。

 

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本に出てくる原画の展示ではなく、現代の作家たちが、『どうぶつ会議』からインスピレーションを得て作ったアート作品の展示となっていた。

 

展示の感想は……少し物足りないというか、表層的な展示だったなあ…という印象(自分にはアートを読み解く力はないことは前提として)。

ただ、古典作品に光を当てるという意味では、成功していると思う。

新しい読者もでき(私だって展示があるから思い出して読んだわけだし)て、それだけで十分良いことだ。

 

けれども、私はまたひっかかりを感じてしまった。

(何にでも引っ掛かりを感じるこの性質は自分でも厄介だと思っている。)

もう入り口から、つまずいてしまった。

『動物会議』は、ひとりの女性図書館司書(というにはレップマンは偉大な人物だが)が、ケストナーに示唆を与えて、生まれた。

「戦争によって荒廃した人びとの心、とくに戦争にはなんの責任もないこどもに心の栄養を」と考えた、イェラ・レープマン(イェラ・レップマン。図書館司書、国際児童図書評議会の設立者)が発案して、生まれたとされている。(前述・『動物会議』あとがきより)

私にとっては大前提のこの事実が、この展示では一切言及されていなかったのだ。

 

入口のところで上映されていたスライドで、

女性の編集者っぽい人がケストナーに、子どもと大人に作品を書いてください、と促すシーンが流れていて、

え、もしかしてこれがレップマン…? このモブっぽい扱いの人が…?? と思った瞬間に、気分がズーンと落ち込むのがわかった。

 

いや、もしかして私の(よくある)勘違いなの? レップマンこの作品に実は無関係なの?? と思って、

帰ってから、イェラ・レップマンの自伝を読んだ。

 

 

第二次世界大戦直後のドイツで、国を立て直すために他にも大事なことはたくさんあるという外からの声と、自分の中でも葛藤のある中、子どものための図書展示会と図書館設立に軍服を着て(担当するのは文化的なことだが所属はアメリカ軍という立場)奔走するレップマンの姿が、赤裸々に描かれていて、感動的だった。

しょっぱなから軍大佐からの女性蔑視発言について書かれていた。そういう時代だったんだなって、逆にラインホルトのセクハラ発言にも納得がいくような。また一方で、レップマン自身が、自分より地位の低い女性を少しバカにするような描写もあり、これもまた時代か……と頭を抱えたりもした)

 

『動物会議』の誕生についても記述があった。

ここで一度、動物たちにご登場いただいて、その本能と人間の理性とを対峙させてみてはいかがでしょうか。ここまで考えたとき、私は、エーリヒ・ケストナーのところに行きました。(125ページ)

二人は何度も集い、「ボールのようにアイディアを投げあい」、物語を練り上げていったのだ。

でもそれって、レップマンがそう思ってるだけの可能性もある…と思った(心配性の)私は、ケストナーの伝記も手に取った。

 

 

(動物会議の)この平和主義的なメルヘンのアイディアをケストナーに提供したのは、イェラ・レップマンという女性だった。(328ページ)

 

ここにも、二人が協力して物語を作ったという記述が、数ページにわたって書かれている。

 

『どうぶつかいぎ展』では、ケストナーがうんうんうなって、「そうだ、動物たちに活躍してもらおう!」とひらめく、というイラストが展示されていた。

まるで、この物語は、ケストナーが思いついた、オリジナルのアイディアであるかのようだ。

 

ケストナーと、画家ヴァルター・トリアーのブラザーフッドみたいなものが展示では強調されていて、『動物会議』は「二人だけの作品」といういことにしたかったのかもしれない。そっちの方が「わかりやすい」から?

 

でも、展覧会って、作品を深く掘り下げて、別に知らなくてもいい豆知識も知れてお得な気持ちになれてしまう、というものだと私は思っているので、そういう意味でも、これは表層的な展示だなと思ってしまったのだった。

 

ここまで書いてみて、一方で、これっていかにも、『動物会議』らしいな、とも思うのだ。

『動物会議』の物語の中に雌牛の席はないように、『動物会議』という作品が作られた過程を振り返るにあたっても、「女性」の存在はいらない、いとも簡単に消されてしまうものなんだな、と。

そう思うと『動物会議』はやはり、前世紀的な作品なのかもしれない。

 

大学時代、「かつて存在していたのに、歴史上から消された女性芸術家たち」、という授業をうたたねしながら聞いていた私だけれど、こうやって、人って歴史から消されるんだな、ということを目の当たりにした気がした。

こうやって、自然に、何の悪意もなく、人は消されていくんだろう。

 

でも私は忘れないし、知ってしまったからには残しておかなければ、と思って書いたのがこの拙い文章である。

 

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『動物会議』の中で好きな絵の一つ。複製原画も豊富に展示されていた。

 

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『動物会議』の中でも素晴らしいと思う表紙の絵に、照明が当たっていなかった。

 

コンサーティーナ練習記録 2021年

コンサーティーナに憧れて、

お茶の水の谷口楽器さんでアングロコンサーティーナを購入したのは2020年のこと。

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こちらが私のコンサーティーナ

ご厚意で何の音が出るのかわかるシートをつけていただいたのですが(写真撮る時はずしてしまった…)、すごくすごく便利! これがなければ手も足も出なかっただろう…。

 

楽器の経験は、幼少期のピアノ、そして近年はウクレレ(和音しか弾けない)。

ウクレレを始めたときは、3カ月くらい教室に通って基礎的なことを身に着けたので、

同じようにコンサーティーナも習いに行きたいと思っていたのだけれど、コンサーティーナ教室といったものは現在ほとんどなく、独学で学ばなければいけないことを購入の際に知った。

アングロコンサーティーナに関しては楽譜集も存在しないみたいで。

それでも、ピアノの楽譜で同じように弾けるだろうと軽く思っていたら、そう簡単にはいかなかった。

 

コンサーティーナは蛇腹を押しているときに出る音と、引いているときに出る音が違う。

左右それぞれボタンがあるのだけれど、真ん中のラインに並んでいるボタンを基準とすると、蛇腹を押したときが「ドミソ」、引いた時が「レファラシ」が出る、ということ、なのかな?(いまだにわかっていない)

だから、蛇腹を押しながら、右手で真ん中ラインの「ド」を弾いたときには、左手で真ん中ラインの「ラ」を弾くのは難しい。しかし、探せば押しながら弾ける「ラ」のボタンがある。

そこが思った以上に複雑だった。こんなにも「ド」と「ラ」を一緒に弾く瞬間があるなんて…。自分が音楽に対して無学すぎた…。

 

結局、押し引きを踏まえて考えた楽譜(もどき)を自分で書きおこすことに。

しかも、ピアノの楽譜、読めると思ってたのにあまり読めなかったことには自分でも衝撃を受けた。

かろうじて「ド」はわかるので、一本ずつ五線譜をおさえて何の音か確認しながら読んでる…。

読めないということはもちろん書けないので、楽譜もどきは全部ドレミ(カタカナ表記)で書くことに。

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↑自分でも何を書いているかわからない楽譜もどき

時間をかけて楽譜もどきが出来上がった後、実際に弾きながら練習を始めたら

「やっぱりここはこっちの和音だな」

「押して弾くと思ってたけど引いて弾かないと通して弾けないな」(蛇腹の押引きのバランスを考えないといけない)

と、問題続出。練習をしながら楽譜を修正していく。

結果として、弾くこともそうだけれど、楽譜を作ることが自分にはかなり困難な作業だった。

 

というわけでかなり亀の歩みだけれど、弾けるようになった曲を、記録の意味もあり、自分を鼓舞する意味もあり、ドレミ付きで動画に残すことに。

目標は1年で6曲!

なんとか先日、6曲目まで更新できた!バンザイ!!!

 

①Happy Birthday 

短くて、そんなに難しくないと思います。

弾けるようになると、友達のお誕生日の時に重宝します。


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②さんぽ

いきなり難しい。でもコンサーティーナの音色にピッタリ。


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カントリーロード

テンポがゆっくりなので少し弾きやすい。コンサーティーナってジブリとも親和性がある。


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④ドレミのうた

和音は繰り返しが多いので弾きやすい。しかしテンポがいいのと結構長いので、その点では難しい。


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⑤にじ

めちゃくちゃ難しくて、一回挫折した。でも好きな曲なので、何度弾いても飽きないのがよかった。


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⑥ウィンター・ワンダーランド

難しい…。弾いたことない和音がいっぱい出てくる。テンポも速い。でも弾いてて楽しい曲です。


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Winter Wonderlandは、「もものこシアター」で使いたかったので、1週間毎日2時間ずつくらい練習したらなんとか弾けた。難しかったけど最短で形になったかも。


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「もものこシアター」で、アドベントカレンダーのBGMに使用。

なぜかこの動画、著作権にひっかかる(広告が入る)らしくて。

曲の著作権は切れているはずだけど、どうやらレコード会社が権利を持っているってこと…? どういうこと? 大人の方教えてください。

 

まだまだボタンの位置を覚えられていないので、とにかく指が覚えるまで練習するという感じ。

指が覚えているところを押さえるので、たまに自分が何の音を弾いてるのかわからないときもある。

そして、しばらくたったら指が忘れて弾けなくなる…。

だから多分今弾けるのはWinter Wonderlandだけ…。ほかの曲もおさらいしなければ…。

そう、あとからおさらいができるという意味でも、ドレミ付きの動画を残しておくことは自分の為になった。手書きの楽譜、字が汚すぎて意味がわからないので…。

 

梅雨の終わりに「にじ」を練習し始めたけど、別のことで手いっぱいになって、完全に練習がストップ。

2カ月くらい弾かず、「もう全く弾けない…」とくじけそうになり、楽器に触るのも怖いくらいだった。

そんな時に「ココナラ」で、オンライン講座をされている方を見つけて、思い切って受講。

本当に久しぶりにコンサーティーナに触れて、それがきっかけでまた練習を再開することができた。

(そういう「きっかけ」は上手に活用していきたいものだなーと。)

初級◆コンサティーナ(コンサーティーナ)教えます アイルランド音楽 *(^o^)* 初回限定30分延長無料♪

 

とても親切に教えていただきました!

 

私にとってはコンサーティーナは長年憧れの楽器だったのだけれど、知り合いに聞くと「知らない」という人も多い。

一体自分は何がきっかけでこの楽器を知ったのだろう…。

直近だと映画『ラプンツェル』でもこの楽器を奏でてるキャラクターを見た気がするけど…

と思っていたら、下の妹が

「お姉ちゃん、バートにでもなるつもりなん?」と言った。

 

バート…?? あ!!!

バートと言えば、

映画『メリー・ポピンズ』に出てくる、主人公メリー・ポピンズの友人。

そして、我々姉妹の永遠の恋人。

私たちは何度となくこの映画を見ては、

「バートがイケメンすぎる…」

「バートと結婚したい…」

「でもバートの経済力では結婚は…」

「大丈夫、私が養うから…」

と話してきました。(何の話や)

 

バートは大道芸や煙突掃除をして暮らしており、いわゆる「定職」にはついていないようす。

ぼろをまとい顔も汚れた感じ…でもバートにはユーモアがあって、ダンスも歌もうまくて、いつも夢を抱いていて笑顔で……私たちは今も昔も彼に夢中。

ハッ! 私のダメンズの礎がここに…?

いや、男はお金じゃないってことをバートが教えてくれたのだ!(力強く!)

 

前置きが長くなりましたが、そんなバートが、大道芸をするときに弾いている楽器!

それがコンサーティーナだった!

忘れてた~!潜在意識に刷り込まれていた!

 

ぜひお確かめください。

 

思えば、ディズニー映画『ピノキオ』でも『白雪姫』でもコンサーティーナらしき楽器が出てきています。

ディズニー映画と親和性が高い楽器なのかもしれません。(当方ディズニー映画育ち)

 

そんな憧れの楽器に実際に触れることができて、弾くのは本当に難しいのだけれど嬉しい。

来年も少しずつ弾ける曲を増やしていきたい。

しかし、YouTubeを見ていると、とてもお上手な方がいらっしゃって、

どう考えても自分の指がこんな風に動くとは思えないような運指をしているんだよなあ…。

右と左が別の生き物みたいな動き方。左も和音だけじゃなくてメロディみたいなの弾いてるし…。

いつかはそんな風に弾きこなせる日が来るんだろうか…。

 

実は新しい楽器にも挑戦したい今日この頃なのだけれど…

あまりあちこちに手を出さないほうがいいのだろうか。

悩みどころです。

 

『秘密の花園』に描かれた魔法

※未読の方ご注意!ネタバレありまくりです。

 

秘密の花園』。子どもの頃、テレビアニメでやっているのを見ていました。

両親を亡くし、生まれ育ったインドから遠いイギリスに住む叔父の家に引き取られることになった少女メリー。気むずかしい、と言われている叔父が不在の中、広くて暗い雰囲気のお屋敷で、召使いに世話をされながらの暮らしが始まる。

そこでメリーは、「入ってはいけない」といわれている「秘密の花園」を見つけ、足を踏み入れる―――。

 

アニメで知った大体の筋で、物語のすべてをわかった気になっていたのですが、それは大きな間違いでした。

数年前、たまたま原作本(福音館文庫版、挿絵は堀内誠一!)を読む機会がありました。

 

 

まず、ストーリーテリング(お話の運び方)のうまさに唸りました。

登場人物のキャラクター、謎のある設定が次から次に畳みかけるように描かれ、読者をぐいぐいひっぱっていくのです。

 

前半のあらすじはこんな感じ。

<つかみ>

誰にも愛されたことがないゆえ、ひねくれた性格のメリーが、生まれ育ったインドから遠いイギリスの叔父の家に引き取られる。→大移動、変わった境遇、主人公が全然かわいくないところ良い。

<面白いエピソード>

召使のマーサ、庭師のベン・ウェザースタフ、庭にいるコマドリと出会う→個性的なキャラクターが次々に登場して、エピソードもそれぞれおもしろい。

<サスペンス要素>

屋敷の謎。廊下から泣き声が聞こえたり、入ってはいけない庭があることを知る。

<一つ目のクライマックス>

コマドリの導きで、入ってはいけない庭=「秘密の花園」のカギを見つけ、足を踏み入れる

<2人目の主人公の登場>

秘密の花園」との出会いに「おおー」と思ったら間髪入れず、マーサの弟のディッコン登場。動物とも話せるという、とても魅力的なキャラクターで、好きになってしまう!

ディッコンとメリーは荒れた「秘密の花園」を一緒に再生させることに……。

 

このあたりまでで約200ページ(全体の半分)くらい。

ここまできて、私ははたと気が付きました。

「そういえば重要な登場人物のあの子がまだ出てきてないじゃないの!」

「あの子」とは、<3人目の主人公>とも言える、屋敷の主の息子、コリンです。

彼が物語の半分くらいまで出てこなくても、なんら支障なく面白く読めるのです。驚きでした。

そして、コリンが出てきてから、物語の面白さはさらに加速していきます。

後半に描かれた「魔法」

物語後半には、メリーの性格もすっかり朗らかになり、身体が不自由だったコリンが驚異の回復をするという大クライマックスがありますが、私が素晴らしいなと思ったのは、「魔法」が出てくるところです。

「魔法」といっても、呪文や杖で魔法をかけるような夢物語ではない、誰もが手に入れることのできる魔法について、物語の中で丁寧に描かれています。

 

メリーとディッコンに連れられて、コリンはついに「秘密の花園」にたどりつき、そこで素晴らしい時を過ごします。

会う人みんなを笑顔にし、気難しいコリンすら穏やかにさせてしまうディッコンが、魔法使いなのではないかと、メリーは考えています。

車いす生活をしているコリンが「自分は歩けるようになるのだろうか」と言うと、ディッコンは「びくびくするのをやめりゃ、立てる」と言います。

ついに、コリンが自らの意思で立ち上がろうとしたとき、ディッコンは即座にコリンに駆け寄ります。

不思議な力がみなぎって、立ち上がることができたコリンは、ディッコンに問いかけます「君は魔法を使っているのかい?」と。コリンもメリーと同じように、ディッコンの不思議な力を魔法だと感じたのです。

ディッコンは答えます。

「魔法を使ってるのはあんただろ。ここらの土のなかからいろんなものが出てくるのと同じ魔法さ」

 

コリンが立ち上がろうとするのを見ていたメリーは、

「大丈夫よ! 大丈夫よ! 大丈夫! できるわ」

と何度も言います。

コリンがディッコンに支えられながら歩いているときも、メリーは、

「できるわよ! できるわよ! できる、ってあたしいったでしょ! できるの、できるのよ! できるわ!」

とコリンに向かって言っています。

まるで魔法の言葉みたい、と私は思いました。「できる、できる」と言い続けること、これは、魔法の呪文なのです。

こうして子どもたちは、すっかり魔法を信じるようになるのです。

 

「あそこには魔法が働いているんだもの―いい魔法がね」

「もしそれが本物の魔法じゃなくてもさ、そのつもりになればいいだろ。あそこには何かがあるんだよ―何かがね!」

 

この「何か」とは、いったい何なんでしょう。ディッコンの母親(彼女も魅力的なキャラクターです)は、魔法を「大きくて、いいもの」と表現しました。魔法というのは世界中にあって、みんなそれぞれが違う呼び方で呼んでいる。その「大きくて、いいもの」を信じ続けるよう、コリンに言います。

そして、同じころ、コリンの父親も、旅の途中、自然の中で「大きくて、いいもの」に出あって、妻を亡くしたことで長年病み続けていた心が癒された心地がします。

 

この「魔法」や「大きくていいもの」は、レイチェル・カーソンの『センス・オブ・ワンダー』に通じるものがあると私は感じました。

 

 

地球環境に警鐘を鳴らした『沈黙の春』で有名な、生物学者レイチェル・カーソンの遺作でもある『センス・オブ・ワンダー』は、彼女が甥と一緒に、自然に満ちた別荘の周りを散策し、甥が自然と出あっていく様を見た経験から書かれた本です。

そこには、子どもと自然との出あいが、子どもの人生にどんなに前向きな影響を与えるかが書かれています。

 

「地球の美しさと神秘を感じ取れる人は、科学者であろうとなかろうと、人生に飽きて疲れたり、孤独にさいなまれることはけっしてないでしょう。たとえ生活の中で苦しみや心配ごとにであったとしても、かならずや、内面的な満足感と、生きていることへの新たなよろこびへ通ずる小道を見つけだすことができると信じます」

(『センス・オブ・ワンダーレイチェル・カーソン・著 上遠恵子・訳 新潮社)

 

その経験を、メリーたちは「秘密の花園」を通して得たのです。

センス・オブ・ワンダー』が編まれたのが1965年、『秘密の花園』が出版されたのが1911年。『センス・オブ・ワンダー』よりも随分前に、自然を通した子どもの成長や恵みが書かれているのは、驚きです。時代を超えてこの二人の作家は、同じ精神をもっていたのだと思います。

 

さて、それでは私たちがその、「魔法」を使うにはどうしたらいいのでしょう。

それもコリンが示してくれます。

「もちろんこの世界にはたくさん魔法があるにちがいないよ」-「たぶんはじめのうちは、何かすてきなことが起るまで、起りますように、起りますように、っていえばいいんじゃないかな」

コリンはそう言うと、自分が考える魔法について、そして自分も魔法を使えることを科学的に証明してみせると、長い演説(福音館文庫秘密の花園』p.366~p.368)をします。

自分が何かを成し遂げることができると、強く信じて、繰り返しことばにして、やってみること、それがコリンの考えた「魔法」のやり方です。

コリンは言います。

「魔法はぼくのなかにある。みんなのなかにある」

作者は物語を通して、子どもたちにも魔法を信じてほしい、魔法は誰にでも使えるのだと伝えたかったのでしょう。

そして読者はきっと、自分にも魔法が使えるようになると思えるのではないでしょうか。

それはこの物語の持つ「魔法」だと、私は思うのです。

 

バーネットの描く主人公の変遷

秘密の花園』の作者は、『小公女』『小公子』と同じ、バーネットです。

「実はしっかり者」という点で、二つの物語の主人公の印象はは若干重なる部分があるのですが、『秘密の花園』は『小公女』のように、いじめを中心とした物語の引っ張り方をせず(それももちろん物語としておもしろさはあるのですが)、子どもたちの伸びやかに成長する力や、登場人物の魅力で読ませます。どちらかといえばじっとりとした印象のある『小公女』に対し、『秘密の花園』のカラッとしてはつらつとした空気は、正反対の印象です。

メリーやコリンのひねくれた性格は、作品が出た当時は珍しく、新しい主人公の型だったようです。

今では、ひねくれものの主人公が成長するという物語は、当たり前のように感じますが、当時は『小公女』のセーラのような、元から清廉潔白な主人公が王道だったのだそうです。(福音館文庫秘密の花園』訳者あとがきより)

私には、『小公女』と『秘密の花園』の作者が同じというのは驚きで、バーネットの作家としての幅の広さも感じました。

 

そういえば、メリーとディッコンとコリンの関係性は、『ハイジ』のハイジとペーターとクララの関係性と重なるような気がしました。というわけで、『ハイジ』も読んでみたのですが、その話は、またいつか。

 

私たちは魔法使いになれる ~『秘密の花園』と「もものこシアター」制作裏話~

大人になってから『秘密の花園』を読んで、いたく感動しました。

 

子どものころテレビアニメでやっていたのを見ていたので、「大体筋は知っている」と高をくくって、今まで原作を読んでいなかったことを後悔するくらい。

いや、しかし、子どもの頃の自分にこのお話の素晴らしさがわかっただろうか、と考えると疑問でもあります。

 

誰にも愛されたことがない故、ひねくれた性格のメリーは、みなしごになってしまったためイギリスの叔父の家に引き取られる。敷地内にある「入ってはいけない庭」に足を踏み入れたメリーは、そこで自然と触れ合い、出会った子どもたちと友情をはぐくみ、成長していく、というのが『秘密の花園』のざっくりとしたあらすじ。

登場人物のキャラクター、謎のある設定が次から次に畳みかけるように描かれ、読者をぐいぐいひっぱっていくので、気づけば夢中で読んでいました。

 

 

特に感銘を受けたのは、「魔法」が出てくるところ。

「魔法」といっても、杖で魔法をかけるような、夢物語ではない、誰もが手に入れることのできる魔法について、物語の後半に丁寧に描かれています。

読んでいるうちに読者は、自分にも魔法が使える気がしてくる、そのように思わせてくれる力を、この物語に感じるのです。

抄訳では割愛されそうなこの描写が、この物語の肝だと私は思いました。

(……これについてもう少し詳しく書きたいのだけれど、長くなるので後日あらためます。)

 

さて、もうすぐハロウィンです。

私はYOUTUBEチャンネルでパネルシアターを公開しているのですが、ハロウィンに向けて何かパネルを作りたいと考えていました。

ハロウィンと言えば、お化け…魔女…魔法…。

 

魔法使いって、どうやったらなれるんだろう?

特殊な才能が必要なのかもしれない。

でも、ハリー・ポッターだって、何年も魔法学校で学んで魔法を身に着けるわけです。

私たち人間だって、自分の好きなもの、自分に合っているものであれば、鍛錬を積めばうまくなる。まるで「魔法」のように、速く走ったり、お料理を作ったり、歌ったり、できるようになるんじゃないかな。

 

秘密の花園』の「魔法」も、きっとそういうこと。

「魔法はぼくのなかにある。みんなのなかにある」(『秘密の花園』)

そこに描かれた「魔法」について、私も描いてみたいと思ったのです。

 

「誰でもきっと、魔法使いになれる!」

そんな思いを込めてできたのが、こちらの作品…。

 


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ああ、しかしなんというか、思いが先行しすぎて、まどろっこしい教訓的な作品になってしまったようにも思います。

元々教訓的なお話を好むタイプではあるのですが…

もっとスマートに、さらっと、じんわりと、心に響くように描けたらいいのに!

難しいですね…。

秘密の花園』には、自然に心に響くように描かれているので、良かったらぜひ読んでいただけたらと思います。

 

一時エリック・カールさんの絵本『できるかな? あたまからつまさきまで』を元に作られたテーマソングをよく口ずさんでいました。


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「きみはできるかな?……できるよできる!」

と歌うことで、自分を励ましていたのです。

まるで魔法の呪文のように。

 

今回のパネルシアターのために作った歌は、口ずさむことで自分を励ましてくれる歌になったらいいなという思いもあります。

作品を作り出すということは、私にとっては魔法みたいに、つかみどころのない難しいものでもあります。

「なりたいな、なれるとも、魔法使いになれるんだ!」

魔法の呪文を自分に歌い聞かせて、手を動かし、作り続けるしかないのです。

 

ハロウィン動画は、去年作ったこちらが好評。

たくさん見ていただいているみたい。

ありがとうございます。


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