『動物会議』に雌牛の席はない

(2022年4月17日・追記)

1.完訳版『動物会議』を読んで

大好きな美術館、立川のPLAY!MUSEUMで

『動物会議』(エーリッヒ・ケストナー/作 ヴァルター・トリアー/絵 池田香代子/訳 岩波書店/刊)をテーマにした展示が始まるらしい。

企画展示「どうぶつかいぎ展」|PLAY! MUSEUMとPARK (play2020.jp)

『動物会議』からインスピレーションを得て、現代の作家たちが作り出した絵や造形作品が展示される。

 

『動物会議』…そういえば読んだことがなかった。

 

 

 

エーリッヒ・ケストナー作の本書。

ケストナーといえば、『飛ぶ教室』や『二人のロッテ』、『点子ちゃんとアントン』など、児童文学好きは必ずと言っていいほど通る作家。(ちなみに私が読んだのはずいぶん大人になってから。「児童文学好きの子ども」というわけではなかったので…)

 

『動物会議』は、ケストナーの描いてきた児童文学とは少し趣が違って、絵の占める割合が多い。しかし、絵本というには、文量が多くて、書棚のどこに置くか迷う本でもある。(もものこぶんこでは、高学年読み物の棚に置いてある気がする。)

 

1949年に発刊されたこの本は、「戦争によって荒廃した人びとの心、とくに戦争にはなんの責任もないこどもに心の栄養を」と考えた、イェラ・レープマン(イェラ・レップマン。図書館司書、国際児童図書評議会の設立者)が発案して、生まれたとされている。(『動物会議』あとがきより)

 

愚かな人間たちにこの地球をまかせてはおけないと、動物たちが奮起して、地球上のあらゆる動物たちが集まる動物会議を開催する。平和を約束する条約を作り、人間に署名させようとするが、政治家たちはなかなか首を縦に振らない。業を煮やした動物たちは、大胆な行動に出る…。

 

人間の、とりわけ多くの大人の愚かさは、救いようがないもので、この本が描かれてもう80年以上も経つというのに、変わらない。

 

それをケストナーは、思わず笑ってしまうような表現で、物語としても読みごたえのある作品にしあげている。

大真面目にふるまう人間の政治家たちは、読者の目には滑稽に、愚かにうつるだろう。

ケストナー作品の挿絵を長く担当し続けた、ヴァルター・トリアーの絵も素晴らしい。なんとも楽しい絵が、全てのページに贅沢にちりばめられている。(とあるページにミッ〇―マウスが描かれているのも、ご愛嬌)。

 

しかし、完訳版を読み進めていて、はっと気づくことがあった。

それは43ページ、動物会議の参加者の雄牛のラインホルトが、ホテルで「ある要求」をするシーン。

その要求を聞いて、「ホテルの支配人のコウノトリは、ぞっとして、身の毛がよだった」とある。

雄牛のラインホルトは、「さびしくてしょうがないので、チャーミングな雌牛をよんでくれ」と言ったのだ。

ホテルに、雌牛を、呼んでくれと。

それはつまり……。

もちろん肯定的に書かれていないとしても、動物会議に参加するような「立派」な雄牛が、このような行動をとることが、ちょっとした悪い冗談のように書かれていることに、私も「ぞっとして、身の毛がよだった」。

 

そこで私はある疑問を抱き、ページをさかのぼって見て、その後も注意深く本書を読むことになった。

 

「果たして、この動物会議にメスの動物は出席しているのだろうか?」

 

ゾウのオスカルの「おくさん」は、会議に出席する旦那のために、服にアイロンをかけ、持っていく荷物の準備をする。

駅では動物たちの子を連れたお母さんが、出席者の動物たちを見送るシーンがある。

動物たちの話し言葉を注意深く見てみる。

例外的にライチョウ(とペンギン?)が「あたしたちも鳥よ」と言っている(46ページ)以外は、いわゆる「女言葉」を話す動物は出席者の中にはいないようだ(女言葉を話すか否かで性別を判断することもナンセンスだが、それは今回は置いておくとする)。

そして思い至る。

 

「ああ、この動物会議には、雌牛の席はないのかもしれない」

 

急にこの物語が、自分のために描かれたものではないような、疎外感を感じてしまった。

1949年の本である。そこまでのことを、当時の大作家に望むのは高望みなことなのだと、わかっている。

でも、現代に生きる私たちは、この本を読んで、それに「気づく」ことができる。

 

これから先、私たちが描く『動物会議』があるとすれば、そこにはきっと、雌牛の席も用意されているだろう。

雌牛だけではなくて、あらゆる性(現代において性別は2つだけではないと思う)の動物のための席が、そこにはあるだろう。

 

正直、雄牛のラインホルトのホテルでのくだりがなければ、私はそのことに気づかなかったかもしれない。なんとなく読み流して、いい話だなあと思って、終わっていたかもしれない。

図らずして、「それ」に気づけるかどうか、試されるかのような読書体験になった。

ちなみに、会議を見守る来賓者の「人間の子ども」は男女混合(人種も混合しているところにも配慮を感じる)。

子どもには性別はないのだというのが、また当時らしい無邪気な感覚な気がしたのだった。

 

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例)未来の動物会議(分科会みたいになってしまった)



 

これを書いていて、思い出した映画がある。

 

 

それぞれに高い能力を持ち、NASAに勤めながらも、「黒人系」で「女性」であるために理不尽な差別にあう3人の主人公たち。

それでも宇宙への夢を抱き、仲間と手を取り合い、ロケット打ち上げに尽力するという、実話に基づく物語。

天才的な数学の才を持ち、ロケット打ち上げの計算係を担うキャサリンの目の前で、重要な会議が開かれる会議室の扉が閉じられるシーンが、いつまでも忘れられない。

部内で一番有能であるにも関わらず、彼女は会議に出席し、意見を言うことも認められなかった。

 

かくいう私も、何度も目の前で会議室の扉が閉まるような経験をしてきたし、今だってそう変わらない。(それは自分の能力が至らないからとも、自覚しているつもりだ)

だんだんと年を取ってきたから、「興味のない会議に出なくていいのは幸運」と思うようにも、なってきたのだけれど。

 

(以下は、2022年4月17日追記)

2.抄訳版『どうぶつ会議』を読んで

 

後日、小さいサイズの『どうぶつ会議』を読んだ。

 

 

読むまで知らなかったのだが、最初に読んだ大型版『動物会議』は完訳版で、小さいサイズの『どうぶつ会議』は抄訳だった。

大筋はもちろん同じだが、抄訳版は縦書きであるのに加え、いくつかの挿絵や、細かいエピソードが短い言葉で省略されたりしている。

 

表紙の表と裏にわたる迫力のある会議の絵も、抄訳版では表紙のみになっていたり(そして裏表紙の絵のチョイス…なぜこの絵…)、省略された挿絵の中にも良い絵(動物たちが絵本から飛び出していく絵とか)があるので少し残念に感じたりもする。

 

ただ、私が完訳版を読んで訝しんだいくつかの点において、抄訳版では巧妙に(?)処理されていて、驚いた。

  • 雄牛のラインホルトが、雌牛をよんでくれと要求するシーン

完訳版では43ページ、雄牛のラインホルトは「さびしくてしょうがないので、チャーミングな雌牛をよんでくれ」と言うのに対し、

抄訳版では「ひとりじゃさみしいから、だれかつれがほしいといいました」とされている。

この訳の巧妙さ!!

完訳版では露骨な要求であるのに対して、抄訳版ではともすればラインホルトが独り言を言ってるくらいの感覚でスルーできてしまう。

 

  • 会議にでかける夫のために、準備をする妻たちの描写

完訳版では27ページの下に、「動物のおくさんたち」が、夫のために旅支度をする、という挿絵が入っている。

これを見て「旦那の出張のために妻がせっせと荷造りする」という、前世紀的な描写に(もちろんこのおはなしは前世紀に描かれているので間違いではないのだが)、私はげんなりしたのだった。

文章で読むと流れは全訳も完訳もほぼ同じなのだけれど、抄訳版ではこの挿絵が省略されていることで、視覚表現から受けるインパクトが少ない分、読んだときの印象が自分では少し変わった。

 

これは原著にあたらないとわからないのだが、

完訳版ではライチョウとペンギンは「あたしたち」と自らを称するのに対し、抄訳版では「ぼくたちだって」と言う。

「動物会議に雌牛の席はない」というタイトルで書き始めた記事なので、ここがオスなのメスなのかは気になるところなのだけれど……自分の中で仮説はあるのだけれど、仮の話をしても仕方がないのでここは割愛する。

ただ、ここに訳の違いがあるということは、何かしらのつまずきがあったことは確かなのではないだろうか。

 

私がぐちぐちと書き綴った3つの点において、完訳版と抄訳版には見て取れる違いがあったのには、驚きだった。

特に1つめの雄牛のラインホルトの記述については、訳者の光吉夏弥さんの「配慮」なのではないか、と思う。

ある意味巧妙な「編集」だな、とも。

(子どもに生々しい表現を見せるべきではない、と言う意味の配慮かもしれない)

ともあれ、光吉さんが訳をするにあたって、私と同じようにこの部分にひっかかりを感じたのだと思うと、自分の感じたひっかかりが思い過ごしではないのだと思えたのだった。

 

3.PLAY!MUSEUM『どうぶつかいぎ展』

企画展示「どうぶつかいぎ展」|PLAY! MUSEUMとPARK (play2020.jp)

会期が長いからいつでも行けると思っていたのに、気づけば最終日が近づき、ぎりぎりで行くことができた。

 

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本に出てくる原画の展示ではなく、現代の作家たちが、『どうぶつ会議』からインスピレーションを得て作ったアート作品の展示となっていた。

 

展示の感想は……少し物足りないというか、表層的な展示だったなあ…という印象(自分にはアートを読み解く力はないことは前提として)。

ただ、古典作品に光を当てるという意味では、成功していると思う。

新しい読者もでき(私だって展示があるから思い出して読んだわけだし)て、それだけで十分良いことだ。

 

けれども、私はまたひっかかりを感じてしまった。

(何にでも引っ掛かりを感じるこの性質は自分でも厄介だと思っている。)

もう入り口から、つまずいてしまった。

『動物会議』は、ひとりの女性図書館司書(というにはレップマンは偉大な人物だが)が、ケストナーに示唆を与えて、生まれた。

「戦争によって荒廃した人びとの心、とくに戦争にはなんの責任もないこどもに心の栄養を」と考えた、イェラ・レープマン(イェラ・レップマン。図書館司書、国際児童図書評議会の設立者)が発案して、生まれたとされている。(前述・『動物会議』あとがきより)

私にとっては大前提のこの事実が、この展示では一切言及されていなかったのだ。

 

入口のところで上映されていたスライドで、

女性の編集者っぽい人がケストナーに、子どもと大人に作品を書いてください、と促すシーンが流れていて、

え、もしかしてこれがレップマン…? このモブっぽい扱いの人が…?? と思った瞬間に、気分がズーンと落ち込むのがわかった。

 

いや、もしかして私の(よくある)勘違いなの? レップマンこの作品に実は無関係なの?? と思って、

帰ってから、イェラ・レップマンの自伝を読んだ。

 

 

第二次世界大戦直後のドイツで、国を立て直すために他にも大事なことはたくさんあるという外からの声と、自分の中でも葛藤のある中、子どものための図書展示会と図書館設立に軍服を着て(担当するのは文化的なことだが所属はアメリカ軍という立場)奔走するレップマンの姿が、赤裸々に描かれていて、感動的だった。

しょっぱなから軍大佐からの女性蔑視発言について書かれていた。そういう時代だったんだなって、逆にラインホルトのセクハラ発言にも納得がいくような。また一方で、レップマン自身が、自分より地位の低い女性を少しバカにするような描写もあり、これもまた時代か……と頭を抱えたりもした)

 

『動物会議』の誕生についても記述があった。

ここで一度、動物たちにご登場いただいて、その本能と人間の理性とを対峙させてみてはいかがでしょうか。ここまで考えたとき、私は、エーリヒ・ケストナーのところに行きました。(125ページ)

二人は何度も集い、「ボールのようにアイディアを投げあい」、物語を練り上げていったのだ。

でもそれって、レップマンがそう思ってるだけの可能性もある…と思った(心配性の)私は、ケストナーの伝記も手に取った。

 

 

(動物会議の)この平和主義的なメルヘンのアイディアをケストナーに提供したのは、イェラ・レップマンという女性だった。(328ページ)

 

ここにも、二人が協力して物語を作ったという記述が、数ページにわたって書かれている。

 

『どうぶつかいぎ展』では、ケストナーがうんうんうなって、「そうだ、動物たちに活躍してもらおう!」とひらめく、というイラストが展示されていた。

まるで、この物語は、ケストナーが思いついた、オリジナルのアイディアであるかのようだ。

 

ケストナーと、画家ヴァルター・トリアーのブラザーフッドみたいなものが展示では強調されていて、『動物会議』は「二人だけの作品」といういことにしたかったのかもしれない。そっちの方が「わかりやすい」から?

 

でも、展覧会って、作品を深く掘り下げて、別に知らなくてもいい豆知識も知れてお得な気持ちになれてしまう、というものだと私は思っているので、そういう意味でも、これは表層的な展示だなと思ってしまったのだった。

 

ここまで書いてみて、一方で、これっていかにも、『動物会議』らしいな、とも思うのだ。

『動物会議』の物語の中に雌牛の席はないように、『動物会議』という作品が作られた過程を振り返るにあたっても、「女性」の存在はいらない、いとも簡単に消されてしまうものなんだな、と。

そう思うと『動物会議』はやはり、前世紀的な作品なのかもしれない。

 

大学時代、「かつて存在していたのに、歴史上から消された女性芸術家たち」、という授業をうたたねしながら聞いていた私だけれど、こうやって、人って歴史から消されるんだな、ということを目の当たりにした気がした。

こうやって、自然に、何の悪意もなく、人は消されていくんだろう。

 

でも私は忘れないし、知ってしまったからには残しておかなければ、と思って書いたのがこの拙い文章である。

 

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『動物会議』の中で好きな絵の一つ。複製原画も豊富に展示されていた。

 

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『動物会議』の中でも素晴らしいと思う表紙の絵に、照明が当たっていなかった。